マインドフルネスの本質をつかむ仏教用語の意味

西洋社会にマインドフルネスの考え方を紹介したジョン・カバット・ジンが自ら述べているように、マインドフルネスの基本的理念は仏教に源を発します。

仏教、ことによりよく生きる方法としての原始仏教と、マインドフルネスが目指すところは、実は驚くほど似通っています。

やや難解と敬遠されがちな仏教用語を理解することは、マインドフルネスの本質を掴む上でとても有効です。

1. マインドフルネスの本質としてのサティ

仏教の修行といえば、真っ先に瞑想や禅が思い浮かぶかもしれませんが、「本質」から見れば、瞑想や禅もそれを実現する方法の一つにすぎないことがわかります。

したがって、マインドフルネスの実践として、瞑想以外にも、身の回りのさまざまな事物を対象とした方法が無数に存在します。

具体的には、意識を向ける対象としての、呼吸、周囲の音、風、姿勢、言葉、思い(なかでも苦悩等)、感情(イヤという気持ち、不安、イライラ等)、光、足元の大地、、などなど。

それこそありとあらゆるものがマインドフルネスの手段となり得るのです。

仏教では、その「本質」のことをサティと言っています。日本語では念や気づきと訳され、英語ではずばりマインドフルネスとなります。

そして、サティとは、「今この瞬間の体験をありのままに(評価・判断なく)観察し、気づいていること」です。

その体験の対象があらゆる事象であり、その一つの形が瞑想であるというわけです。
マインドフルネスとは、このサティを体現した状態と定義できます。

2. 三相と仏教修行

三相とは、仏教の根本思想の一つで、すべての存在、物事は無常、苦、無我であることを言います。他との関係が縁になって生起することを意味する、「縁起」という現象の根源的な3つの性質を表現したものです。

三相のそれぞれの意味は以下の通りです。

無常ー 生滅変化して移り変わり、ひと時も同じ状態にとどまらないこと
苦 ー 精神や肉体を悩ませる状態
無我ー あらゆる事物は現象として生成しているだけであり、それ自体を根拠づける不変的な本質は存在しないこと

このうち前の二つは比較的馴染みがある考え方である一方、無我が一番わかりにくいと思われるのでもう少し解説してみます。

ここでいう「我」とは、ヒンドゥー教のアートマンに由来する概念です。ヒンドゥー教では梵我一如というように、宇宙の根本原理であるブラフマンと個人の本体であるアートマンは同一不二としています。

ということは、ヒンドゥーではアートマンも不滅となります。仏教ではそうした実体のようなものはないと否定しており、それを表すのが無我です。ちなみに、世俗的な自我意識(自分という意識、小我、エゴなどとも言われます)が幻のようなものであるという点では両者は一致しています。

アートマンに近い概念としては、自己の本質としての「魂」になるでしょう。ただし、この世は魂を磨く場、魂の学校といった言葉からは、魂は完璧な存在ではなく成長していく存在という考えがベースにあることが伺え、その点はアートマンと異なると考えられるでしょう。

一方、仏教には魂という概念は出てきません。六道(地獄・餓鬼・修羅・畜生・人・天)という苦しみと迷いの世界を輪廻転生する主体は、縁起によって偶発的に生まれていることになるのでしょう。

ただ、解脱してはじめて六道輪廻からのループから抜け出すことができると考え方からは、自我意識と比較しても、より固定的な状態にあるものが想定されているようにも思われます。

釈迦が説いた仏教の教えは、宗教というより、苦しみの多い現世をいかに幸せに充実して生きるかという、生き方の実践哲学の色彩が濃かったと考えられます。

釈迦は、その目的に照らして、魂の存在に言及する必要を認めなかったのかもしれません。もう少し推理すると、ヒンドゥーのアートマンに反する魂のような概念を持ち出して、ヒンドゥー教徒の反発を生むことを避けた可能性があるようにも思えます。

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無我の説明が長くなってしまいましたが、本論に戻ります。

仏教では人間は三相に反する妄想(もうそう)を抱いており、この妄想によって苦しむとされています。つまり、何かが永遠に続くことを願ったり、頑張って苦をなくそうとしたり、自分という幻に振り回されたりしているということです。

この妄想は原因があって起きている(四諦)ので、仏道修行をとおして正しい生き方(八正道)を身に着けることで、その原因を除去すれば苦しみを終えられるというのが仏教の中心となる考え方です。

3. マインドフルネスの核:ヴィパッサナー瞑想

マインドフルネスの核:ヴィパッサナー瞑想

正しい生き方を説いた八正道の筆頭が正見です。正しい考えを知るということですが、気づきのためにまずはありのままを見ることが肝心となります。

「ありのままを観じて気づいていく」、上述のとおりマインドフルネスの本質であるサティの概念ですが、これをとことん行うのがヴィパッサナー瞑想です。

また、ヴィパッサナー瞑想は釈迦が悟りを開いた瞑想とされていて、悟りに至る王道と言えるものです。

言葉によってラベリングして確認したり、感覚を意識したりするなど、様々な流儀のものが存在しますが、共通するのは「今という瞬間に完全に注意を集中する」ということです。

前項の三相を繰り返し観ずる(経験する)ことが、妄想の正体を見破ることであり、ヴィパッサナー瞑想の本質であると言われます。

4. ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想

仏教では、瞑想を、サマタ瞑想(止行)と、ヴィパッサナー瞑想(観行)とに分ける見方があります。

サマタ瞑想は何かに集中することで集中力を育てるものであり、高ぶった心を鎮める手段でもあります。一方、ヴィパッサナー瞑想は物事をあるがままに観察するものであり、沈み込んだ心を活気づける手段でもあります。

様々な瞑想状態もしくは瞑想法は、このどちらか、あるいは両方に分類されます。また、ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想は異なる効果を持つものであるため、どちらか一方でなく、両方を修習されることが多いようです。

両者の関係という点では、サマタ瞑想が先で、ある程度の集中力が養われ静かな心の状態が安定したところでヴィパッサナー冥想を修習するという流れになるようです。

心が乱れて不安定な状態では、対象をあるがままに観察することなどとてもじゃないけどできない、ということでしょう。

5. マインドフルネスと解脱

解脱とは、輪廻転生のループを抜け出ることを言います。上述のとおり、人間は六道(地獄・餓鬼・修羅・畜生・人・天)という苦しみと迷いの世界に生まれ変わり続けますが、精神的成長を遂げて解脱という境地に達すると、もはや生まれ変わる必要がなくなります。

仏教的には、解脱は悟りとほぼイコールと考えられているようです。悟りとは、際限のない欲、怒り、妄想という三毒による煩悩に縛られていることから解放され、宇宙の普遍の真理を知ることを言います。

マインドフルネスでは、心身の健康や幸福感の実現、人生の充実というところに焦点が置かれていて、解脱や悟りというところまでは言及されていません。

しかしながら、いくら仕事が充実しても、良き伴侶に恵まれても、どれだけお金があっても、老いや死から逃れることはできません。歳をとれば病気にもなるでしょう。

つまり、マインドフルネスを実践していくと生きる苦しみがなくなる分、それ以外の生きている限り避けることのできない苦しみが、クローズアップされてくることになります。

そうなると、意識が解脱や悟りに向かうのは自然の成り行きといってもいいかもしれません。ですから、マインドフルネスを実践していって、遠い延長上に位置するのが解脱や悟りという見方もできるかもしれません。

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ところで、釈迦が人類史上初めてその境地に達したとされています。また、これ以上はない至高の境地であるという言い方もされるようです。

しかし、個人的には、これは仏教の手前味噌ではないかと思っています。地球に先史文明がないという証拠はどこにもないし、また、宇宙にこれだけ多くの星が存在するにもかかわらず、地球にしか人間(のような存在)がいない、あるいは、最も進化した存在と見るのはどう考えて合理的ではありません。

そもそも21世紀になってもエゴにとらわれ、互いの都合を押し付けあって殺し合いをやめられない人類は、学校制度にたとえれば幼稚園レベルのようなものではないでしょうか。

釈迦はたしかに今の地球人類にあっては優れていたかもしれませんが、宇宙無二の存在かというと、それはどうでしょう。幼稚園児が大学生の学んでいることを想像することさえできないように、上には上があると考える方が自然な感覚のように思います。

6. マインドフルネスと禅定

マインドフルネスと禅定

禅定とは、心を一点に「定めること」や乱れを取り去って心を「静めること」であり、瞑想それ自体も意味します。

仏教では瞑想をジャーナ(jhqna)」とも呼び、その音をとって「禅」や「禅那」と訳したり、意味をとって「定」とか「静慮」などと訳したりし、音と意味を合わせて「禅定」と言うそうです。

定はサマーディ、これを音写して三昧(ざんまい)という呼び方もなされます。

禅定には段階があり、サマタ瞑想によって禅定の初期の段階に達したのち、ヴィパッサナー瞑想を行うことで悟りの境地に達することができると考えられています。

先ほど述べたとおり、心を落ち着かせてからしっかりと観るというプロセスです。

マインドネスの方法で、仏教でいう禅定の段階までいけるかどうかは、本人次第というところでしょう。

長年にわたり正しくマインドフルネスを実習していけば、その境地に至ることは可能だと思います。

ただ、適切な指導者につくなどして、禅定のような境地の概念に対する理解を欠いていると、そこに到達するのにより時間がかかることになるでしょう。

7. まとめ

仏教用語への理解が深まることで、マインドフルネスへの見方が多少なりとも変わったでしょうか。

マインドフルネスが持つさらなる可能性への展望が開けたとしたら、喜ばしいことです。

人と人との繋がりが希薄になり生きづらさが増すばかりの現代社会ですが、正しい心のあり方を習得する人が増えて、少しでも明るい未来が実現することを願います。

以上

この記事を書いた人

祇場駿矢

祇場駿矢

京都市出身。
京都大学法学部卒業。
大学卒業後、現在のメガバンクに入社、26年間勤務。

ビジネスの現場で産業調査や大企業の事業再生、富裕層取引等を担当、多くの企業経営者、富裕層顧客と接する中で、世の中の流れ、リーダーシップ、お金の本質等について考察を深める。

少年期より「人はなんのために生きるのか」「人はどこから来てどこへ行くのか」を自らに問いかけてきた。バブル世代でいったんは世の中の価値観に染まるが、会社オンリーの人生に生きる意味を見失って挫折を味わう。

魂が震える生き方を追求する中で一悟術に出会い、自身や周りの体験から、自己成長の最高のツールという確信に至り、独立起業を果たし、誰もが物心共に幸せになれる方法として「悟りを目指す生き方」を伝えている。

豊富な社会経験、懐の深さから、経営者、投資家、コンサルタント、カウンセラー、コーチ、医師、作家、セミナー講師、会社員、主婦など、多くのクライアントから支持されている。

著書「先行きの不安から自由になる『お金と心の法則』」(フォレスト出版)

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